山親爺@Black-Bearが、日々の活動と体験雑学を綴っていす。
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札幌の市街地を流れる川で、冬は本州へ渡るのが一般的な野鳥のカワセミが越冬中で、
純白の雪原を何羽も飛び交っている。
カワセミは体長15㌢ほど。
長いくちばしが特徴で、コバルトブルー色の体から「空飛ぶ宝石」とも呼ばれ、
野鳥フアンの人気が高い。
道内では温泉水や湧き水が多く凍らない川で、
冬を越すカワセミが姿を見せることもあるが、都市部では珍しいという。
今回の場所は真冬でも凍らない川で、餌となる小魚も多いことから居着いたらしい。
日本野鳥の会札幌支部の住友順子事務局長は
「人間がつくり出した環境をうまく利用しているようです」と見守っている。 北海道新聞記事
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「古墳」
北海道にも古墳があるといえば驚かれるかもしれない。
アイヌ民族は北海道縄文人の末裔だ。
しかし読縄文時代以降、北海道にいたのはアイヌだけではない。
4世紀前から1千年近く、サハリンから南下したオホーツク人が
オホーツク海沿岸を占めていた。
かれらは漁民だが、大陸と交易もおこなっていた。
一方、オホーツク人が南下した4世紀以降、アイヌ民族は東北北部に南下し、
古墳文化の人びとと交易をおこなっていた。
アイヌとオホーツク人は緊張感をもちながら北海道ですみ分けしていたのだ。
しかし6世紀以降、オホーツク人は日本海を南下し、アイヌの領域であった道南や、
東北北部に姿を見せるようになる。
かれらも本州の古墳人と交易を求めたようだ。
オホーツク人の介入によって、アイヌと古墳人の交易は混乱しただろう。
『日本書記』には7世紀後葉、中央から派遣された 阿倍比羅夫の軍団が
渡島(北海道)に達し、粛慎(オホーツク人)から危害を加えられていた
渡島蝦夷(アイヌ)に加勢し、粛慎を討ったという記録がある。
この事件は当時のオホーツク人とアイヌの関係をよく表している。
比羅夫遠征の直後、オホーツク人は道北に撤退し、
入れかわるように東北北部の人びとが道央に移住をはじめた。
この移住者アイヌの人々に古代日本の農耕文化や祭りなどを伝えたとみられる。
そして、9世紀まで千歳・恵庭・江別・札幌などに暮らしていた
移住者の残した墓が古墳なのだ。
これは直径5~10㍍の円形に溝をめぐらせ、
その内側に棺を置き、土を盛ったものだ。
古墳はアイヌの葬制にも変化をもたらした。
埋葬姿勢がそれまでの屈葬から古墳と同じ伸展葬に変わった。
古墳のように盛り土のあるアイヌの墓があってもよさそうだが、
まだみつかっていない。
興味深いのは、古墳が作られた道央の中世から近世のアイヌの墓は、
溝と盛り土があって古墳そっくりなのだ。
ただし移住者が古墳を残した時代とは離れており、
直接の関係はないのかもしれない。
いずれにしろ古墳は、
アイヌとオホーツク人・古墳人をめぐる激動の時代の遺産なのだ。
(瀬川拓郎・旭川市博物科学館主幹) 朝日新聞
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北海道にも古墳があるといえば驚かれるかもしれない。
アイヌ民族は北海道縄文人の末裔だ。
しかし読縄文時代以降、北海道にいたのはアイヌだけではない。
4世紀前から1千年近く、サハリンから南下したオホーツク人が
オホーツク海沿岸を占めていた。
かれらは漁民だが、大陸と交易もおこなっていた。
一方、オホーツク人が南下した4世紀以降、アイヌ民族は東北北部に南下し、
古墳文化の人びとと交易をおこなっていた。
アイヌとオホーツク人は緊張感をもちながら北海道ですみ分けしていたのだ。
しかし6世紀以降、オホーツク人は日本海を南下し、アイヌの領域であった道南や、
東北北部に姿を見せるようになる。
かれらも本州の古墳人と交易を求めたようだ。
オホーツク人の介入によって、アイヌと古墳人の交易は混乱しただろう。
『日本書記』には7世紀後葉、中央から派遣された 阿倍比羅夫の軍団が
渡島(北海道)に達し、粛慎(オホーツク人)から危害を加えられていた
渡島蝦夷(アイヌ)に加勢し、粛慎を討ったという記録がある。
この事件は当時のオホーツク人とアイヌの関係をよく表している。
比羅夫遠征の直後、オホーツク人は道北に撤退し、
入れかわるように東北北部の人びとが道央に移住をはじめた。
この移住者アイヌの人々に古代日本の農耕文化や祭りなどを伝えたとみられる。
そして、9世紀まで千歳・恵庭・江別・札幌などに暮らしていた
移住者の残した墓が古墳なのだ。
これは直径5~10㍍の円形に溝をめぐらせ、
その内側に棺を置き、土を盛ったものだ。
古墳はアイヌの葬制にも変化をもたらした。
埋葬姿勢がそれまでの屈葬から古墳と同じ伸展葬に変わった。
古墳のように盛り土のあるアイヌの墓があってもよさそうだが、
まだみつかっていない。
興味深いのは、古墳が作られた道央の中世から近世のアイヌの墓は、
溝と盛り土があって古墳そっくりなのだ。
ただし移住者が古墳を残した時代とは離れており、
直接の関係はないのかもしれない。
いずれにしろ古墳は、
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(瀬川拓郎・旭川市博物科学館主幹) 朝日新聞
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宗谷管内浜頓別町にある日本最北の縄文貝塚
「日の出貝塚」が、「縄文期の道北は人があまり住んでいない
"過疎地〟だった」という考古学の常識を覆そうとしている。
名古屋大の新美倫子准教授(動物考古学)を中心に本年度まで3ヵ年、
発掘調査した結果、貝塚は予想よりははるかに大きく、最北の環境に適応した人々が
100人以上の大集落を形成していた可能性が高まったからだ。
新美準教授は新年度からさらに3ヵ年の調査継続を文部科学省に申請。
最北の縄文人の暮らし解明を目指す。
クッチャロ湖畔にある日の出貝塚は約5800年前の縄文文明期のもので、
オホーツク海側での縄文貝塚はほかに北見市常呂、
根室市温根沼の2ヵ所しか確認例がない。
1958~59年に北大と浜頓別町教委が長さ27㍍、幅1・5㍍のトレンチ(試掘講)を掘り、
黒曜石やカキなどの貝殻、アシカなど怪獣の骨が出土しているが、
詳しい形成過程や規模などは明らかになっていなかった。
温根沼の貝塚の調査にも携わった新美准教授ら名大中心のチームが
文科省の科学研究費補助金で3ヵ年にわたり半世紀ぶりに発掘。
当初は全長十数㍍程度かとみられていたが、
昨年9月に最終的に全長63㍍、幅36㍍に及ぶことが分かった。
貝塚に沿って、住民の暖房や調理で出たとみられる炭や灰、
焼土を含む大量の盛り土も発見。
新美准教授は「これだけの貝や焼土は数家族程度の小集落では出ない」と語る。
道北は縄文期の大集落が未発見のため、考古学の常識で過疎地とされてきたが、
新美准教授は「日の出貝塚が大集落なら、
道北で大集落があるのはここだけとは考えられず、常識が覆る」と言う。
このほか日の出貝塚では、現在は宮城県以南にしかいない
二枚貝シオフキなども見つかり、
新美准教授は「当時の気候は温暖化が想像以上だった」と推測する。
今回の調査で収集した貝などの分析では、日本海側から宗谷海峡を
越えてくる暖流の影響で、道北の海水温は道東より高かったことも判明。
暖流は気温にも影響し、道北の居住環境の厳しさをかなり和らげていた
可能性があるという。
北大の調査で大量に出土したアシカ類の骨からも、
新美准教授は「人々には高い狩猟技術があった。アシカ類の狩猟は本州以南にはなく、
縄文前期に既に北方の環境への適応がかなり進んでいたことが分かる」と説明する。
今後、住居跡を発見したり、土中の花粉などから当時の植物を割り出せば、
最北の暮らしや北方適応の様子、生活の環境を明らかにできるという。
新美准教授「北海道が本州と異なる独自の道を歩み、
やがてアイヌ文化が成立する流れの起点も探ることもできる」と説く。
文科省研究費による調査継続の可否は4月に決まる見通しだ。
北海道新聞 枝幸支局 (太田一郎 記者)
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北海道・旭川市から車で約1時間の幌加内町は、
日本一のそばの作付面積を誇る。
1954年に町立農業高校として創立した幌加内高校は、
そばが「必須科目」という全国でも珍しい学校だ。
1994年、当時の校長が
「そば生産日本一の地ならではの特色を」と発案した。
それから20年がたち、学校の知名度アップに大きく貢献している。
校舎の裏手にある「そば道場」で授業が始まった。
「始め ! 」の声がかかると、生徒は一新にそば打ちに向かい、
聞こえるのは息遣いだけになった。
1㌔のそば粉をふるいにかけ、水を少しずつ加えて練り、のし棒でのばす。
粉は手のひら大の玉となり、さらに布のように円く薄くなった。
四角形に整えてたたみ、包丁で細かく切って出来上がり。
道具をきれいに拭いて元の位置に戻してから、初めて「終わりました」と声が出た。
早い生徒は30分ほどしかかからなかった。
「そば打ちは何度やっても難しいです。特にこねる時はめっちゃ力がいるから、
筋力トレーニングもしました」と3年生の猪谷有未さん(17)は話す。
全生徒が卒業までに「素人そば打ち段位」を取る。
初段は言うまでもなく、3年生は18人のうち14人は2段、2人は3段の腕前だ。
2段の木村美乃梨さん(18)は「集中力が一番大事」と言う。
行程の一つでも手を抜くと、余りかすが増えたり、けがをしたりするからだ。
木村さんが「100点満点」と振り返るのは、
昨年の「全国そば打ち選手権大会」リハーサルの1回だけ。
「本番は手が震えて全然ダメでした」と笑う。
そばを担当する高本高宏教諭(42)は
「集中しなければ、しっかりしたそばはできない。
最後まであきらめない力を育てたい」と狙いを話す。
高本教諭は2008年に同校に赴任してそば打ちを始め、現在4段の達人だ。
そばを打つ生徒に鋭い視線を向け、
「水が足りないんじゃないか」「正確に、正確に」と声をかける。
幌加内は人口密度が全国一低い町として知られる。
全校生徒64人のうち、幌加内の中学から来たのは1人だけ。
多くは旭川や札幌方面の出身で、近くの寮で共同生活を送る。
「そば打ちをやってみたい」と進学した生徒もいる一方、
中学時代に不登校などでの問題を抱え、
「環境を変えてリセットしたい」とやって来る生徒もいる。
同校にとってそば打ちはあくまで「教育」。
集中力を身につけ、達成感を得ることで自信を持ってもらうことが一番の目的だ。
同校で語り継がれる卒業生がいる。
11年に始まった全国高校そば打ち選手権大会で、
初代チャンピオンに輝いた高崎瞳さん(20)だ。
テレビでも大きく紹介された。
高崎さんは北海道比布町出身。
中学時代に学校の人間関係に悩み、ほとんど通えなかった。
「環境を変えたい」と幌加内高校を選び、そばに出会った。
高本教諭が「ずばぬけた実力」と認める腕前で、
生徒代表として町内外の行事に参加した。
「自分が何かに選抜されたのは初めての経験だった。上達していくのが自分の目でもわって、
とても自信になった」と振り返る。
卒業後は東京・銀座で手打ちそばを出す居酒屋に就職し、そば打ちを指導した。
今は故郷の比布町で子育ての最中だ。
「そばを打ち続けたことでついた粘り強さと体力が仕事に生きた。
しばらくは子育てに集中して、
一段落したらまたそば打ちの経験を生かした仕事をしたい」と張り切っている。
朝日新聞(山吉健太郎 記者)
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全国最北端・稚内市にある宗谷中学校。
保護者の約9割が漁業関係者という同校の体育館に昨年11月、
小学生から大人まで50人を越す人たちが集まった。
45年目になる「産業教育」の発表会。
全校生徒34人が斑に分かれ、パワーポイントを使いながら
工夫をこらす。
ホタテの模型でむき身の取り出し方を実演したり、
工場見学の様子を寸劇にしたり、観客もパイプ椅子から身を乗り出すように
舞台を見つめ、耳を傾けた。
1年生は漁を体験し、2年生はタコの薫製づくりを中心に加工を学び、
3年生は自分たちでつくったホタテの薫製を販売する。
地元の特産品を通じて、3年間で漁労、製造・加工、流通までを体験するのが「産業教育」。
目的は「地域に誇りを持ち、地域に学ぶ」こと。
その成果を発表する「水産タイム発表会」には、保護者だけでなく、
地元の小学生や漁師たちも招かれる。
タコとホタテの薫製をつくるのは、校舎の向かいにある水産棟。
貝から取り出したホタテの貝柱は、手やピンセットで一つ一つ丁寧に周りの
すじや汚れを取り除く。
この一手間で煙がまんべんなくきれいにかかる。
タコは頭の部分を薄切りにして薫製に。
適度に固い半解凍の状態で1㌢未満にそそいでいく。
薄いビニールの手袋だけで冷たいタコをつかみながら、
生徒たちはてきぱきと包丁を動かす。
「ホタテの薫製、ありませんか」 昨年秋、ふらりと校舎に立ち寄った男性が尋ねた。
知人からもらっておいしかった薫製を探し求めて訪れたという。
文化祭と、3年生が札幌でする販売実習でしか売らないのに、
毎年何件か電話で問い合わせがあるという。
恒例になった薫製作りだが、前年を踏襲するだけということはない。
昨年はホタテをいぶすのに長年使ってきたナラのおがくずが
販売先の都合で入手困難に。
あっさりとした香り付けで、素材の味が生きていたが、代わりにタコを使っている
マツのおがくずに替えてみた。
松ヤニが薫製らしいパンチをきかせる。
生徒たちで食べ比べ、投票の結果、マツでいこうと決めた。
「一つ一つの活動が初めてだから楽しい」。
そう言って笑うのは、部活動でシマエビの飼育や生態観察、薫製の研究をしている
水産部副部長の畑汐音さん(3年)だ。
父親は漁師で、1年生のエビ籠漁の授業で籠作りを指導したこともある。
宗谷中の卒業生の父親に、昔つくっていたというホッケの燻製について聞くなど
「質問することが増えた」という。
「親が漁業関係者だとしても、手伝うのが当たり前という環境はもう昔のこと」。
産業教育のために長年船を出してきた漁師の成田功さん(62)は話す。
産業教育が始まった1968年は、宗谷の漁獲高が減少し、
若者が職を求めて外に出る時代だったという。
「ここで生きる方法を子どもたちに身につけてほしい」と始まり、
教育体形に合わせて内容を変えながら続いてきた。
成田さんは「産業教育の漁では、取れる量が少ないという失敗もある。
でも、そこからどうしたら取れるようになるのか工夫をする。
子どもたちがどのような道を選んでも、社会に出たときに一歩踏み出すたくましさ、
『生きる力』を教えたいという気持ちに変わりはない」。
産業教育は「地域の財産」だと言う。
水産部の3年生はもうすぐ後輩への引継ぎを迎える。
畑さんは後輩たちに「地域の人に支えられてやってこられている、
ここしかない伝統なんだということを伝えたい」と胸を張った。 朝日新聞
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