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山親爺@Black-Bearが、日々の活動と体験雑学を綴っていす。
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高田孝さんの畑につくられたマイファームで

野菜の育ち具合をみる

   マイファーム代表取締役「西辻 一真 さん(32)」

 
旧約聖書の箴言には、みずからの畑をたがやす者はパンに飽き足りぬ、とある。
 しかし、春夏秋冬、脇目もふらずにたがやし、野菜を育てても、
兵庫県西宮市の郊外にある高田孝さん(65)の先祖伝来の畑は年ごとに、
飽き足りるにはほど遠い稼ぎにしかならなくなっていた。

 還暦が迫り、精根尽きて、たがやすのをあきらめかけた6年前、
後継ぎになろうとしてくれた息子にも病で先立たれてしまった。
とほうに暮れた高田さんは、テレビでマイファームを知ると、
すがりつくように電話をかけていた。
「うちの畑も体験農園にして残したい」

  2007年秋に京都市で起業したベンチャーのマイファームは、持てあまされ、
作付けされなくなった近郊の畑作放棄地を、
だれでも体験できる農園にしてよみがえらせている。

 汗と涙がしみこんだ荒れ地の再生を推し進めてめざそうとしているのは、
「自産自消ができる社会」だという。

 「『自産自消』は、自分でつくり、自分で食べることを意味する造語です。
だれもが当たりまえのように、自分が食べる野菜は、買わずに自分でつくる世に中にしたい」

 全国で約40万㌶に達する耕作放棄地が、
あらかた元通りにたがやされている未来図を夢想しているのである。

 耕作放棄地を整備したマイファームの体験農園はいま、
関西、関東、東海の86ヵ所(計約150㌶)にある。
15平方㍍の1区画あたり月々平均数千円の利用料を払えば、ベテランの指導員がいて
農具も備え付けられているので、初心者でも手ぶらで有機無農薬の野菜栽培に討ちこめる。
 高田さんの畑も、朽ちはてることなく120区画の体験農園に生まれ変わった。

 農家に代わって農園の集落や管理運営をうけおうビジネスモデルは、
京大農学部に在学中から練りあげていた。
 そのころ、知人の取りもちで心強い理解者となる人物に引き合わされた。
京都の花卉農家で、全国農協青年組織協議会の会長をつとめたこともある谷則男さん(52)だ。

 「農業にたずさわる人を増やして、耕作放棄地を減らす事業は、
本来、我々がやらないかんことや。不思議なもので、農家同士なら、
たとえ知らん仲でも親身に話を聞いてくれる。全国におる知りあいに声をかけて、
なんとかしたろうと思うたんです」

 10年には、農業専門学校の「マイファームアカデミー」
(現・アグリイノベーション大学校)を開校し、プロ農家の養成にも乗りだしている。
 卒業生約400人のうち1割が、すでに就農した。 収穫した作物は昨年、
オープンした直営八百屋やレストランであつかっているという。

 「お客さんも畑に行ってみたくなる。『自産自消』の循環の輪がつながりました」
 「耕作放棄地は僕の原風景。眺めると落ち着く」  

 ― なぜ、耕作放棄地にこだわるのですか。

 生まれた福井県ですが、父親は農家ではなく、サラリーマンでした。
でも、母親が家の裏庭に家庭菜園をつくっていたので、
それを幼いころから手伝っていました。

 小学生になると競争心が芽生えて、母親とは畝を分け、
自分専用の畑で野菜を育てるようになったのです。
毎日、水をやり、手をかけてやればやるほど、うまい野菜が採れた。
食卓ではほめられるので調子に乗って、どんどんのめりこんでしまいました。

 やがて、福井市内の県立高校に進と、通学路沿いのあちこちに点在している
荒れ放題の田んぼや畑が気にかかって仕方なくなったんです。
雑草を生い茂らしている地主の農家はなぜ、僕が夢中になっているように、
野菜づくりを楽しめないのかと思うとやりきれなくなりました。

 そんな素朴な疑問を先生にぶつけてみたら、やむなく放置された休耕地だと教わったので、
「だったら、僕が将来、使わせてもらいますね」と宣言したんです。
大学も農学部へ行くと、そのとき決意しました。

 だから、耕作放棄地は僕の原風景なんです。
心が揺れ動いていても、眺めていると落ち着きます。

  ― マイファームが理念としている「自産自消」は、「自給自足」とどう違うのですか。

 創業したとき、「耕作放棄地の再生」と「(野菜を)自分でつくって
自分食べられる人を増やす」の二本柱をこの会社のミッション(使命)と定めて、
ひいては日本の食糧自給率を1%ひき上げることを目標にしました。

 その後、起業家の集まりで、何をめざしているのか10文字以内で表せなければ、
その会社は世の中のインパクトをあたえられないという話を聞いて、
ふと思い浮かんだのが、「自産自消ができる社会」だったんです。

 自産自消は、自給自足よりも柔軟な考え方で、野菜づくりは、
大いなる自然の厳しさや美しさ、農家の人々の苦労、共同作業の楽しさや採れたての
野菜のえもいわれぬうまさなど、
心の次元の多様な気づきを得るための手がかりでもあるんです。

 ― 「体験農園」は、貸し農家ではないのですか。

 僕らのビジネスモデルの最初の壁は法律でした。
農地を他人に貸すと農地法に触れてしまう。
農地法は死に物狂いで勉強したので、たぶん、日本でも5本の指にはいるほど
くわしくなったと自負していますが、体験を提供するだけで土地の貸し借りはしない
農園利用方式が抜け道になるとわかった。
いわば、1年契約でイチゴ狩りをやってもらうようなことです。

― 創業時は多難だったようですね。

 京都市内で借りた町家の屋根裏部屋をオフィスにして会社を立ち上げてから、
谷さんの人脈で各方面に話を通し、京都で第1号農園をオープンさせるまでに
約半年かかりました。
1年目に契約したお客さんは10組。
売り上げは160万円でしたが、そのうち100万円は野菜をネット販売する
副業で稼いでいたんです。

 でも、2年目から、3千万円と、年々、業積は伸びていきました。
なぜかというと、お客さんがついた事実を知ると、それまでに声をかけていた
周辺の農家が次々、うちでもやってほしいと言い出したんです。
さらに、農家ではないのに農地を相続してしまって困り果てている地主さんに
ターゲットを絞って商談を持ちかけたのも当たった。
ついに「来た来た!」という勢いが感じられるようになったとき、
東日本大震災が起きたんです。

  ― マイファームにとっても、激震だったのですか。

 ちょうど、東北進出を計画していたので、津波がもたらした塩害とがれきで日本最大の
耕作放棄地帯になってしまうと思うと手をこまぬいていられず、
何もかもほっぽりだして現地に行ったんです。

 メディアでは当時、復旧には3年かかると伝えられていました。
そこで、微生物を利用する日本古来の農法をヒントに独自に開発した
土壌改良材をまいてみたら、劇的に塩分濃度が下げられたんです。

 ところが、僕が東北で塩害にかかりきりになっていたとき、
会社は存亡に危機を迎えていました。

 まず、関東の農園の契約者が、激減していた。
放射能の風評被害で、一気に解約の嵐が吹き荒れたんです。
正直、このままでは潰れると、うろたえました。
そんな危急のときに東北へ行きっぱなしとは、一体、何を考えているんだという議論が
社内で噴き出したので、翌年代表取締役から降りたんです。
業績悪化を食い止めるため、1年後に復帰しましたが、耕作放棄地を再生する
第一人者を任じる者に科せられた試練だったと思います。

 ― 目標に掲げている食料自給率のひき上げは実現できましたか。

 大震災の前は、2014年までに6万人が自産自消するようになれば、
1%アップすると唱えていましたが、道のりは遠かったですね。
でも、20年代を新たな区切りにして再挑戦します。

 プロフィル

☆ 1982年、東尋坊と越前ガニが名物も福井県坂井市三国町に生まれる。
  父親は非鉄金属メーカーにつとめていた。
  両親と4歳年下の妹の4人家族。
 小学校に入るまで暮らした社宅には約50平方㍍の家庭菜園があり、
 物心がつくと母親の野菜づくりを喜々として手伝った。

☆ 京大農学部に入り、大豆の品種改良を研究。
  そのころ空想したのは、鳥山明の漫画「ドラゴンボール」に出てくる
 仙豆のようなスーパー作物の開発。
  仙豆は1粒食べれば10日は飢えをしのげて傷も治る豆だ。

☆ 2006年、広告会社に就職。
  翌年に退職後、ネット通販会社をおこし、経営の基礎を身につけてから、
 同年9月、マイファームを創業。
 八百屋「マイファーマー」は京都、東京、名古屋にあり、ラストランは
 故郷の坂井市にある直営農場で営業している。

☆ 座右の銘はアフリカのことわざで、「早く行きたいなら、ひとりで行きなさい。
 遠くへ行きたいなら、みんなで行きなさい」。
 専業農家の立場から助言してきた谷則男さんは「初対面のとき、
 こんなリーダーがおったら、おもろいやろうなと思った」という。

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